フィクション大魔王
シュリシュリシュリシュラ......(ハイボールを氷入りのグラスに入れる)
最近、作業のお供動画に「ゆっくり美術チャンネル」を見ている。あるあるだが、だいたい流しながら作業しているとすぐに主従が逆転する。内容も面白いのだが、ゆっくり解説の名に偽りなく、本当にゆっくりしているのですごい。開始数秒全然魔理沙が喋り出さないこともあり、カットを多用し時間を切り詰めて動画を作るのが定石のYoutubeで、時間を贅沢に使っている感じがとても好ましい。
作業。あの、全然別のことやってたら本作業が全く進みませんでした。本当に助けてください。全然別のこととは、5月末の身内イベントのための準備と、制作に関係のない趣味のお絵描き。もうアホかと。馬鹿かと。やるべきことがある上での逃避は、いつでも楽しい!来週はちゃんとするはず。
静止画の線がブルブルするアニメーションってあるが、あれ好きだな。(参考: ウゴツール)静止画でもブルブル線を動かすことでアニメーションらしく見えるというもので、LightsOutでもやろうと思っていた。言ってしまえば、これは偽物のアニメーションだ。本来アニメーション自体が現実の運動を抽象した偽物であるのだが、さらにそれを静止画に適用してしまう荒技。フィクションのフィクション。こういうひねりを効かせた技が見たくて、インターネットをやっている。
フィクション。最近フィクションについて考えている。虚業、という言葉があるが、フィクションを作ること、広く創作は虚業なのだろうか。確かに、創作は現実の問題をストレートに解決はしない。今も数多く存在するシリアの難民は、誰かが絵を描いたところで支援に繋がるとは考えられないし、国内で毎年約2万人発生する自殺者も、過労や貧困の問題が解決しなければ、おそらく減ることはないだろう。そう言った問題は、適切な取り組みに基づいて解決に導かれる必要がある。言うまでも無いことだ。けれど、そう言ったある種ハイライトされる問題以外の、誰かが個人的に抱える苦しみもまた、軽視されるべきではないはずだ。そしてそう言った問題は、その性質上、国家などの大きな枠組みで取り組みがなされることはほとんどない。個人的なものになればなるほど、実現可能な解決手段が存在しない時さえあるだろう、小規模なもので言えば失恋のように。このような場合に創作物は、問題や解決策の具体から一旦意識をそらし、視点をストレッチしてくれる効果があるのではと思う。問題の客観視と抽象化、あるいは、別のやり方で問題を回避する方法への誘導。フィクションが示唆してくれるのはきっと、全てが上手くいくことなどない人生をドライブするためのひらめきだ。そこにはフィクションのみに果たせる、唯一の役割があるのではと思う。
例えば謎解きでは、与えられた論理をつぎはぎにした、ある種の詭弁を利用して最終的な解決策が与えられる。自分が謎解きを好きな理由は、多分そう言うところにあるのだろう。「ないのなら、作ってしまえばいいのです。」
逆流性のやつがあったから忘れていたが、自分ってかなり体は健康体(意味重複)だな。ご飯は毎食美味しく食べられるし、寝つきはすこぶる良いし。伊藤計劃とか中島敦とか夭折した人のWikipediaを読むのが趣味なので、ハードルが下がっているのかも知れないが。